9月も終わろうとしていますね。
早いのぉ~。
書いて置きたいことだけ、ちょこっと。
◆
20代前後の子、可愛い子が多くなりました。
お人形さんのようにみんなきれいで、似た感じのキレイが流行るから、なんとなく印象としてはみんな同じ顔です。とくに、プチ整形に罪悪感がないらしいので、余計に似ちゃう。
誰だって、思春期には、「あんな顔ならよかったな、あんなスタイルならよかったな」と、どんな美人さんでさえ、容姿のことで憂う時期が合ったと思うから、プチ整形してでも...と思うのも無理はない?か。うーん。
思春期を過ぎても、恋愛をしても、結婚をしても、モテても、アイドルになっても、誰もが「見かけには優劣がある!」と思っていて、「あの娘の方が~」と他人を羨むし、年齢を重ねてなお思い悩む人もいるかと思う。
そりゃ、確かにあるだろう。多少はあるだろう。だが。
たりるんはある日、とあることに気がついた。気がついてから、自分じゃない誰かの”美”がまるで、まるで、まるで気にならなくなりました。
その「とあること」っていうのは...
自分の容姿は自分で「これが好きだ、これがいい」と思って選んで産まれたんだ!ってことです。
たりるんがまだ透明の時に、空で「たりちゃん、産まれ出る準備をしましょう!」と、声をかけられて、その時に、いろいろと選ぶのですが(たぶんね)。
ほら、よく、お母さんを選んで産まれる、とか言うでしょう。そんな感じで、自分が産まれる前に決める中のひとつに、肉体があって(たぶんね)、私は
①この目が好きで、この目を選んで
②この身長が好きで、この背の高さを選んで
と言う具合に、この体型やこの顔を、空の自分は「これがいい、これにします」と、好みに従って選んでいったんだわ~と、気がついたのです。
子どもの頃、粘土で形作っていくように...。ここは丸く大きく、ここは細く長く、カッコよく、愛着を持って...。
世間がいう、美人じゃなかったとしてもスタイルが悪くても、産まれ出る準備中の自分は「その顔とそのスタイルを気に入って自分で選んだ」のですよ~。
自分の好みと美的感覚で最善の選択をしたわけです。
選ぶ時に”重視しなかった項目”に関しては、産まれた後や思春期に、他人と比べて「あ、ちょっとイケてない、鼻が低いわ、足が太いわ」などなど悩んだりするわけです。
とも言えるし、「この鼻が可愛いわん、この足が頼もしいにゃん」と好みで選んだのかも知れない。
だから、なーんにも悩まなくていいのよ。
透明な自分は、その子が可愛い、今度の人生はその容姿で生きよう!と思って、そして、その肉体を無事にお借り出来て、日々生きているのです。
自分の美意識が選んだ自分に、あれがイヤだここがどうだ、と、メスを入れるなんて、愚の骨頂。お化粧で整うレベルで十分です。
これがいいの。
これがよかったの。
自分の選択が最善なの。
自分が選んだ自分で、自信持って、この混沌を目一杯生きましょう。
健康に悪いほど太ったり痩せたり動かないのでなければ、他人(ひと)と比べて容姿や身体のことで右往左往している時間なんて、もったいないです。
すっごい素敵な人は、容姿への美意識が高かったのかも知れないし、自分は自分で、違う部分で意識が高い素敵なところがあるのだよ。
誰もが、そのままで最高なんだから^^
もう、素敵な人すぎてやんなっちゃう^^
が、ほんとのところです。
と、書いて置きたかったひとりごと。
それではまたね。皆さま、どうぞよい10月を♡
毛糸だまの続きが書けていなくてすみません。