今やっと聖フランチェスコの想いがわかる
(編み物の、あ、も出てこない記事です。すみません;;;アセ。また書きます)
物の時代から精神の時代へと変化していることは、多くの人が感じていることかと思いますが、それでも、世の中は、お金のための事件、権力を行使した事件、名誉を傷つけないための隠ぺいなどなど、日々のニュースで流れております。
私達がこれからの未来を、きれいに、清らかに、明るく、よどまずに過ごしたいとして、過去に「成功」といわれてきたあれこれは、むしろ邪魔なのではないかと、思う。
無名でいいのよ。
なんのしがらみもなく、だからこそ、自由に、生きたいように、自分の良心が望むように、感じ、考え、意見し、共感し、中庸でいられる。
権威や名誉など、いわゆる強い立場のものを持ったら、失いたくなかっただろう。そもそもなにもないとしたら、むしろそれは恵まれていたのではないか。
「どこの誰だかわからないけど、この見知らぬ人の作品、力がある!」とかね、そういうのいいな。
自分自身、世俗的欲が少ないのもどうかと思うけど、無名で誰かの何かのお役に立てて、清々しいくらいの持ち物と収入、を愛おしく誇らしく感じられたら、我らが先輩である自然に近づけるのではないか。
良いことは「そっと」行う。バレないからって良心に反することはしない。お天道様はすべてご存じだ。
物が多すぎたら、物に飼われる。出会った物の寿命がつきるまで、修理したり、繕ったりして、共に仲良く暮らすのがいい。
最近は、自分が死ぬ時には、物があふれていない茶室のような更地の部屋に戻せているといいなと思う。
興味のあること、読みたい本、もまだまだあるし、丁寧に愛おしく片付けたいので、長く生きられたらいいな。「人はいつか死ぬ、のではなく、いつ死ぬかわからない。」だものね。命は神様の領域。秘やかに心で思う「長く生きられたらいいな。」
神様仏様への感謝は呼吸のような当たり前の日々の行い。長く御供養出来るように長生き出来たらいいなぁと思う。
結局、天国にスキップしながら昇るためには、きれいな心持ちと、艱難辛苦の経験と、明るく強く生きた魂、なんだろう。
曾野綾子さんの本に影響を受け、十年以上昔に母と、イタリアのアッシジ・聖フランチェスコ教会を訪ねた頃は、「偉い御方がおられたものだ、なぜゆえ、つぎはぎの服だけでよかったのだろう」と、その境地が理解出来なかったけれど、今やっと(そういう生き方が出来るわけではないけれど)、それこそが清らかだと、聖フランチェスコの信念が少しわかる気がして、憧れる。
お盆終わっちゃいましたね。
ご先祖様がお帰りになると、なんとなく、部屋ががらーんとしてる気になる笑
皆さま、残暑厳しき折、ご自愛ください。また、編み物記事書きま~す!!
★今日も編み針と毛糸とともに穏やかな一日を過ごせますように*お互いに笑. ご訪問ありがとうございます. らびゅ~♡
「ヴォーグ学園1年生の頃のたりるん」に「編むことや生きることで少しだけ経験を積んだたりるん」が、そういう話を「手渡ししたい♡」と願って置いているブログです